寺尾聰
小档案
寺尾 聰(てらお あきら、1947年5月18日 - )は、日本の俳優、歌手、ベーシスト、シンガーソングライター。
神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。俳優・宇野重吉の長男。サングラスをかけ、ニヒルな表情がトレードマーク。ほっぺにホクロが二つあることからボッペという仇名もある。和光学園、法政大学第二高等学校、文化学院卒業。
所属事務所はホリプロダクション→石原プロモーション→寺尾音楽事務所(自らの個人事務所)。
小简介
1964年に奥島吉雄らとカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」を結成しベースギターを担当。新興の芸能事務所・ホリプロダクションに所属し、1966年に『いつまでもいつまでも』でレコードデビュー。大ヒットするが、すぐにグループを脱退。
1968年、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスというグループ・サウンズに参加。シングルを1枚出して解散。
同年には石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。これを機に裕次郎の門下となり、石原軍団の若手有望株として主にテレビドラマに出演。青春ものドラマなどで二枚目半的な役柄を演じることが多かった。また『大都会』では新聞記者、『大都会 PARTIII』(日本テレビ)、『西部警察』(テレビ朝日)など石原プロモーション制作のアクションドラマでは刑事役で活躍した。
この間、穿孔性胃潰瘍になり、胃の大部分を切除する手術を受けている。腹部の激痛で動けなくなり、自ら救急車を要請した後にシャワーを浴びて救急隊の到着を待ったと、桃井かおりとの雑誌対談で語っている。その後、東南アジアで静養。本人は、生活費が安く、海辺であおむけになって日に焼いていると、傷口が良くなっていく気がしたと述懐している。復帰時、それ以前のふっくらとした容貌が一変、スリムで翳のある雰囲気をまとった。
『ルビーの指環』を石原プロ関係者に聴いてもらったところ、「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と小林正彦専務は難色を示したが、石原裕次郎の「いいじゃないの」の一言でレコード化が決定した逸話がある。そして、1981年にはヨコハマタイヤのCM曲だった『シャドー・シティ』に続き『ルビーの指環』が大ヒットし、『ルビーの指環』は第23回日本レコード大賞・FNS歌謡祭'81グランプリを受賞した。さらに、TBS『ザ・ベストテン』では、『ルビーの指環』『シャドー・シティ』『出航 SASURAI』が3曲同時にベストテンにランクインされ、『ルビーの指環』12週連続1位の栄誉を讃えた真紅の記念シートも設置された。
これを含め全曲を自らが作曲したアルバム『Reflections』は当時のアルバム売り上げ枚数を更新(164万枚。井上陽水の『氷の世界』の売り上げ記録を8年ぶりに更新し、以後1990年に松任谷由実『天国のドア』に破られるまでトップであった)する空前の大ヒットとなり、本格的に音楽活動を再開した。
しかしヒットを受けて行われた翌年の全国ツアーの序盤、「貯金箱を壊してコンサートの切符を買いに来たのに、入場できなかった子供がいた」ということを聞き、激怒。これはツアーの開始前に「今回は曲とアルバムのヒットでの、ファンに対するお礼を込めたツアーなので、マスコミ取材陣の席は無い」と約束していたが、入れないファンが大勢いたにもかかわらず取材陣用の席が多く余っていた事に対するものであった。ツアーに込めていた思いを踏みにじられた寺尾は、スタッフに対しての不信感を募らせ、以降の一切のマスコミ取材を拒否し、所属する石原プロはその対応に追われた。興行としてのコンサートという石原プロとの考え方の相違もあり、石原プロ首脳(小林専務)と寺尾の関係が悪化。
また同時期に、かねてから役者としての活動フィールドを、石原プロが得意とするアクション物(刑事物)から人間の内面を演じる文芸作品に移したいと考えていたこともあり、これを機に石原プロから離脱することになった。しかし父の宇野重吉と石原裕次郎は昵懇の仲であり、石原プロ離脱後も石原個人との感情的な溝はないという。
その後1980年代後半から黒澤明作品『乱』『夢』『まあだだよ』に続けて出演し、役者としての奥深さを学ぶ。2001年、黒澤の遺稿を映画化した『雨あがる』に主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。日本レコード大賞と日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を両方獲得しているのは寺尾1人だけである。また、2005年にも『半落ち』での演技で同賞の2度目の受賞を果たすなど、俳優として円熟期に入り、好評価を得ている。そして「黒澤明最後の愛弟子」との呼び名を受けている。
現在の妻は、1979年秋の資生堂CM『微笑みの法則』に出演したモデルの星野真弓。『西部警察』の九州ロケで共演している。また女優の范文雀は元妻。
2005年7月7日、「CLUB CITTA」(神奈川県川崎市)でのライブを期に18年振りに歌手活動を再開。現在でもステージでベースギターをプレイ。使用しているのは フェンダーのジャズベース。「ザ・サベージ」時代と変わらぬ腕前を披露している。アルバム『Re-Cool Reflections』も発売され、メロウな歌声を聴かせている。
2007年1月にNHK総合テレビで放送された「SONGS」に出演、アルバム『Reflections』収録曲や『ルビーの指環』を新アレンジで披露した。
余談だが、朝のワイドショー『とくダネ』でインタビュアーだった小倉智昭とは、共通の趣味である音楽を通じ、2006年の1月に出演した時から友人となった。
本人曰く、「無類の麺好き」であり、3食麺類でも平気だという。
2007年12月31日の第58回NHK紅白歌合戦に出場した。紅白出場は1981年から実に26年ぶりで通算2回目。
2008年4月、春の褒章伝達者発表において、紫綬褒章を受章することが発表された。父の宇野重吉も紫綬褒章を受章しており、父子二代での受章となった。
寺尾 聰(てらお あきら、1947年5月18日 - )は、日本の俳優、歌手、ベーシスト、シンガーソングライター。
神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。俳優・宇野重吉の長男。サングラスをかけ、ニヒルな表情がトレードマーク。ほっぺにホクロが二つあることからボッペという仇名もある。和光学園、法政大学第二高等学校、文化学院卒業。
所属事務所はホリプロダクション→石原プロモーション→寺尾音楽事務所(自らの個人事務所)。
小简介
1964年に奥島吉雄らとカレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」を結成しベースギターを担当。新興の芸能事務所・ホリプロダクションに所属し、1966年に『いつまでもいつまでも』でレコードデビュー。大ヒットするが、すぐにグループを脱退。
1968年、三保敬太郎を中心としてザ・ホワイト・キックスというグループ・サウンズに参加。シングルを1枚出して解散。
同年には石原裕次郎製作・主演の映画『黒部の太陽』で俳優デビュー。これを機に裕次郎の門下となり、石原軍団の若手有望株として主にテレビドラマに出演。青春ものドラマなどで二枚目半的な役柄を演じることが多かった。また『大都会』では新聞記者、『大都会 PARTIII』(日本テレビ)、『西部警察』(テレビ朝日)など石原プロモーション制作のアクションドラマでは刑事役で活躍した。
この間、穿孔性胃潰瘍になり、胃の大部分を切除する手術を受けている。腹部の激痛で動けなくなり、自ら救急車を要請した後にシャワーを浴びて救急隊の到着を待ったと、桃井かおりとの雑誌対談で語っている。その後、東南アジアで静養。本人は、生活費が安く、海辺であおむけになって日に焼いていると、傷口が良くなっていく気がしたと述懐している。復帰時、それ以前のふっくらとした容貌が一変、スリムで翳のある雰囲気をまとった。
『ルビーの指環』を石原プロ関係者に聴いてもらったところ、「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と小林正彦専務は難色を示したが、石原裕次郎の「いいじゃないの」の一言でレコード化が決定した逸話がある。そして、1981年にはヨコハマタイヤのCM曲だった『シャドー・シティ』に続き『ルビーの指環』が大ヒットし、『ルビーの指環』は第23回日本レコード大賞・FNS歌謡祭'81グランプリを受賞した。さらに、TBS『ザ・ベストテン』では、『ルビーの指環』『シャドー・シティ』『出航 SASURAI』が3曲同時にベストテンにランクインされ、『ルビーの指環』12週連続1位の栄誉を讃えた真紅の記念シートも設置された。
これを含め全曲を自らが作曲したアルバム『Reflections』は当時のアルバム売り上げ枚数を更新(164万枚。井上陽水の『氷の世界』の売り上げ記録を8年ぶりに更新し、以後1990年に松任谷由実『天国のドア』に破られるまでトップであった)する空前の大ヒットとなり、本格的に音楽活動を再開した。
しかしヒットを受けて行われた翌年の全国ツアーの序盤、「貯金箱を壊してコンサートの切符を買いに来たのに、入場できなかった子供がいた」ということを聞き、激怒。これはツアーの開始前に「今回は曲とアルバムのヒットでの、ファンに対するお礼を込めたツアーなので、マスコミ取材陣の席は無い」と約束していたが、入れないファンが大勢いたにもかかわらず取材陣用の席が多く余っていた事に対するものであった。ツアーに込めていた思いを踏みにじられた寺尾は、スタッフに対しての不信感を募らせ、以降の一切のマスコミ取材を拒否し、所属する石原プロはその対応に追われた。興行としてのコンサートという石原プロとの考え方の相違もあり、石原プロ首脳(小林専務)と寺尾の関係が悪化。
また同時期に、かねてから役者としての活動フィールドを、石原プロが得意とするアクション物(刑事物)から人間の内面を演じる文芸作品に移したいと考えていたこともあり、これを機に石原プロから離脱することになった。しかし父の宇野重吉と石原裕次郎は昵懇の仲であり、石原プロ離脱後も石原個人との感情的な溝はないという。
その後1980年代後半から黒澤明作品『乱』『夢』『まあだだよ』に続けて出演し、役者としての奥深さを学ぶ。2001年、黒澤の遺稿を映画化した『雨あがる』に主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。日本レコード大賞と日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を両方獲得しているのは寺尾1人だけである。また、2005年にも『半落ち』での演技で同賞の2度目の受賞を果たすなど、俳優として円熟期に入り、好評価を得ている。そして「黒澤明最後の愛弟子」との呼び名を受けている。
現在の妻は、1979年秋の資生堂CM『微笑みの法則』に出演したモデルの星野真弓。『西部警察』の九州ロケで共演している。また女優の范文雀は元妻。
2005年7月7日、「CLUB CITTA」(神奈川県川崎市)でのライブを期に18年振りに歌手活動を再開。現在でもステージでベースギターをプレイ。使用しているのは フェンダーのジャズベース。「ザ・サベージ」時代と変わらぬ腕前を披露している。アルバム『Re-Cool Reflections』も発売され、メロウな歌声を聴かせている。
2007年1月にNHK総合テレビで放送された「SONGS」に出演、アルバム『Reflections』収録曲や『ルビーの指環』を新アレンジで披露した。
余談だが、朝のワイドショー『とくダネ』でインタビュアーだった小倉智昭とは、共通の趣味である音楽を通じ、2006年の1月に出演した時から友人となった。
本人曰く、「無類の麺好き」であり、3食麺類でも平気だという。
2007年12月31日の第58回NHK紅白歌合戦に出場した。紅白出場は1981年から実に26年ぶりで通算2回目。
2008年4月、春の褒章伝達者発表において、紫綬褒章を受章することが発表された。父の宇野重吉も紫綬褒章を受章しており、父子二代での受章となった。
单曲