灰野敬二
小简介
灰野敬二是日本千叶县人士,生于1952年(与纽约爵士天才John Zorn同年)。60年代后期,全球左派风潮流行时开始自录作品,十八岁时组成第一支乐团“Lost Aaraaf”,并于山梨县一个音乐节上演出。在1978年组成最重要乐团“不失者”前,也曾经与早亡萨克斯风手阿部薰、钢琴家竹田贤一等爵士、前卫乐手合作,并多次与日本最重要摇滚乐团“裸身聚会”(Les Realizes Denudes,1967年组成,此团以迷幻摇滚为主,曾有“赤军连”成员参加,此员1970年挟持民航机飞至朝鲜。1996年解散,团员仍然各自活跃于日本地下乐界。录音极少,多为盗版或刻录盘,在网路上极为抢手。“裸”与灰野并列日本摇滚两大传奇,影响面相当广。)同台献艺。1982年,灰野初次推出个人专辑《只有我》,更被誉为个人的经典之作,知名度也逐渐传到西方前卫乐界。1995年组成的“拔祈罗”,以噪音包装蓝调与日本民谣。1998年的“哀秘谣”,则是探索日本通俗音乐史的乐团。他的演出与创作至今仍然十分活跃,合作对象包括John Zorn、Barre Philips(低音提琴)、等前卫音乐大人物,以及日本国内各种风格的乐队和艺人,包括后面将提到的鼓手吉田达也。
灰野以长年于各种音乐上的素养,融合泉涌般的创作力,建立出独树一格的“灰野流”,不仅受邀参加欧美大小现代音乐活动,更跨足了多种表演艺术配乐及诗作等领域。
1970年代より活動を続け、常に新たなスタイルを探し続ける野心的な音楽家である。挑戦的で実験的な作品群は、日本のみならず海外での評価も高い。リリースしたレコードやCDは優に100を超える。ソニック・ユースのサーストン・ムーアをはじめ、彼を信奉するミュージシャンは世界的にも数多い。
主に扱う楽器はギター、ヴォーカル。ほかにも、ハーディ・ガーディなど、民族楽器を含めた100種類にも及ぶ多種多様な楽器を演奏する。
マレーネ・ディートリッヒ、ヤニス・クセナキス、シド・バレット、ジム・モリソン、チャーリー・パーカーらの影響を受ける。また、初期のブルースを愛しており、特にブラインド・レモン・ジェファーソンを好んだ。
日本音楽の「間」の概念に強い関心を持ち、作品にもその影響が見られる。また、舞踏や民族楽器にも強い興味を持つ。
大事件
幼少期は病弱であったらしい。
アントナン・アルトーに影響を受けて演劇を志すが、ドアーズの「When the Music Is Over」を聞いて衝撃を受け、音楽へと転向したと言われる。当初は、ブルースや実験音楽のユニットを転々とする。
1970年代前期
1971年、即興ヴォーカルによるバンド「ロストアラーフ」を結成。頭脳警察や阿部薫らも出演した「三里塚・幻野祭」にて登場する。1972年頃、マジカル・パワー・マコと出会って親交を深め、ともに活動するようになる。1973年にはソロ・パフォーマンスを開始。同年、マジカル・パワー・マコらとNHK「ひるのプレゼント」に出演するも、視聴者から苦情が殺到して担当プロデューサーが降格する事態となる。1974年、マジカル・パワー・マコのアルバムに参加。その後、映画「卑弥呼」のサウンドトラックに参加し、武満徹と活動する。
1970年代後期
1975年、ロスト・アラーフが解散。1977年頃、ギターによる演奏を開始し、阿部薫、大正琴楽者の竹田賢一らと軍楽隊を結成する。また1979年には、今もって灰野敬二のメインのバンドである不失者を結成し、ここにハード・ロックの方法論を導入する。不失者は、メンバーチェンジを経ながら現在も存続している。
1980年代前期
1981年、初の渡米を果たし、多岐に亘るミュージシャンと共演。しかし、1983年から1987年にかけて、病気療養のため演奏活動を中止することになる。
1980年代後期
1988年、復帰。パーカッションと舞踏によるソロ・パフォーマンスを始め、田中泯とともにヨーロッパ公演を行う。1989年、三上寛、吉沢元治とともに作品をつくる。
1990年代前期
1990年、法政大学で不失者による初のコンサートを開く。以後、このコンサートは学生会館の閉館まで年末の定例公演として継続していた。1991年にはニューヨークで公演。以後、毎年のように北米やヨーロッパ各地で、不失者あるいはソロとして精力的な公演をする。
1990年代後期
1995年、三上寛、石塚俊明とバサラ(VAJRA)を結成する。「阪神大震災被災者のためのコンサート」にも参加。また、阿部薫と鈴木いづみを描く映画「エンドレス・ワルツ」に本人役で出演。1997年には、徳間ジャパンより初のメジャー進出となる作品を4枚同時にリリースする。1998年には「哀秘謡」を結成。このグループでは、ローリング・ストーンズからグループサウンズ、童謡まで、多彩な曲を新解釈で「あるべき姿にして」演奏している。
2000年代前期
2004年、秋田昌美ときくりを結成。
2005年、青山真治監督のドキュメンタリー映画「AA」に出演。
他に結成したグループとしては、ニード(knead)、サンヘドリン、滲有無(ニジウム:ソロプロジェクト)がある。
現在は、ソロ活動、哀秘謡を並行的に行うとともに、各界のアーティストとのコラボレーションも行っており、共演者は音楽界にとどまらず、舞踏家、詩人、劇団と多岐に渡る(別項参照)。近年はDJにも取り組んでいる。ごくまれに自作の絵の個展を開催する。
不失者はドラマーである高橋幾朗脱退以降、後任ドラムが決まらず、灰野敬二自身が叩いたドラムをサンプラーでループさせたり、ドラムの音なしでベースの小沢靖とのデュオとして活動していたが、2005年を境としバンド(あるいはデュオ)形態での活動は休止状態となった(以降ごくたまにソロだが不失者名義で演奏)。 2008年、長年不失者のベーシストであった小沢靖が2月7日朝方に肺がん・肺気腫のため永眠。
2008年末には伊藤まくとユニット“沙無座(ザムザ)”を結成。渋谷のClub-VUENOSでライブを行なう。
灰野敬二是日本千叶县人士,生于1952年(与纽约爵士天才John Zorn同年)。60年代后期,全球左派风潮流行时开始自录作品,十八岁时组成第一支乐团“Lost Aaraaf”,并于山梨县一个音乐节上演出。在1978年组成最重要乐团“不失者”前,也曾经与早亡萨克斯风手阿部薰、钢琴家竹田贤一等爵士、前卫乐手合作,并多次与日本最重要摇滚乐团“裸身聚会”(Les Realizes Denudes,1967年组成,此团以迷幻摇滚为主,曾有“赤军连”成员参加,此员1970年挟持民航机飞至朝鲜。1996年解散,团员仍然各自活跃于日本地下乐界。录音极少,多为盗版或刻录盘,在网路上极为抢手。“裸”与灰野并列日本摇滚两大传奇,影响面相当广。)同台献艺。1982年,灰野初次推出个人专辑《只有我》,更被誉为个人的经典之作,知名度也逐渐传到西方前卫乐界。1995年组成的“拔祈罗”,以噪音包装蓝调与日本民谣。1998年的“哀秘谣”,则是探索日本通俗音乐史的乐团。他的演出与创作至今仍然十分活跃,合作对象包括John Zorn、Barre Philips(低音提琴)、等前卫音乐大人物,以及日本国内各种风格的乐队和艺人,包括后面将提到的鼓手吉田达也。
灰野以长年于各种音乐上的素养,融合泉涌般的创作力,建立出独树一格的“灰野流”,不仅受邀参加欧美大小现代音乐活动,更跨足了多种表演艺术配乐及诗作等领域。
1970年代より活動を続け、常に新たなスタイルを探し続ける野心的な音楽家である。挑戦的で実験的な作品群は、日本のみならず海外での評価も高い。リリースしたレコードやCDは優に100を超える。ソニック・ユースのサーストン・ムーアをはじめ、彼を信奉するミュージシャンは世界的にも数多い。
主に扱う楽器はギター、ヴォーカル。ほかにも、ハーディ・ガーディなど、民族楽器を含めた100種類にも及ぶ多種多様な楽器を演奏する。
マレーネ・ディートリッヒ、ヤニス・クセナキス、シド・バレット、ジム・モリソン、チャーリー・パーカーらの影響を受ける。また、初期のブルースを愛しており、特にブラインド・レモン・ジェファーソンを好んだ。
日本音楽の「間」の概念に強い関心を持ち、作品にもその影響が見られる。また、舞踏や民族楽器にも強い興味を持つ。
大事件
幼少期は病弱であったらしい。
アントナン・アルトーに影響を受けて演劇を志すが、ドアーズの「When the Music Is Over」を聞いて衝撃を受け、音楽へと転向したと言われる。当初は、ブルースや実験音楽のユニットを転々とする。
1970年代前期
1971年、即興ヴォーカルによるバンド「ロストアラーフ」を結成。頭脳警察や阿部薫らも出演した「三里塚・幻野祭」にて登場する。1972年頃、マジカル・パワー・マコと出会って親交を深め、ともに活動するようになる。1973年にはソロ・パフォーマンスを開始。同年、マジカル・パワー・マコらとNHK「ひるのプレゼント」に出演するも、視聴者から苦情が殺到して担当プロデューサーが降格する事態となる。1974年、マジカル・パワー・マコのアルバムに参加。その後、映画「卑弥呼」のサウンドトラックに参加し、武満徹と活動する。
1970年代後期
1975年、ロスト・アラーフが解散。1977年頃、ギターによる演奏を開始し、阿部薫、大正琴楽者の竹田賢一らと軍楽隊を結成する。また1979年には、今もって灰野敬二のメインのバンドである不失者を結成し、ここにハード・ロックの方法論を導入する。不失者は、メンバーチェンジを経ながら現在も存続している。
1980年代前期
1981年、初の渡米を果たし、多岐に亘るミュージシャンと共演。しかし、1983年から1987年にかけて、病気療養のため演奏活動を中止することになる。
1980年代後期
1988年、復帰。パーカッションと舞踏によるソロ・パフォーマンスを始め、田中泯とともにヨーロッパ公演を行う。1989年、三上寛、吉沢元治とともに作品をつくる。
1990年代前期
1990年、法政大学で不失者による初のコンサートを開く。以後、このコンサートは学生会館の閉館まで年末の定例公演として継続していた。1991年にはニューヨークで公演。以後、毎年のように北米やヨーロッパ各地で、不失者あるいはソロとして精力的な公演をする。
1990年代後期
1995年、三上寛、石塚俊明とバサラ(VAJRA)を結成する。「阪神大震災被災者のためのコンサート」にも参加。また、阿部薫と鈴木いづみを描く映画「エンドレス・ワルツ」に本人役で出演。1997年には、徳間ジャパンより初のメジャー進出となる作品を4枚同時にリリースする。1998年には「哀秘謡」を結成。このグループでは、ローリング・ストーンズからグループサウンズ、童謡まで、多彩な曲を新解釈で「あるべき姿にして」演奏している。
2000年代前期
2004年、秋田昌美ときくりを結成。
2005年、青山真治監督のドキュメンタリー映画「AA」に出演。
他に結成したグループとしては、ニード(knead)、サンヘドリン、滲有無(ニジウム:ソロプロジェクト)がある。
現在は、ソロ活動、哀秘謡を並行的に行うとともに、各界のアーティストとのコラボレーションも行っており、共演者は音楽界にとどまらず、舞踏家、詩人、劇団と多岐に渡る(別項参照)。近年はDJにも取り組んでいる。ごくまれに自作の絵の個展を開催する。
不失者はドラマーである高橋幾朗脱退以降、後任ドラムが決まらず、灰野敬二自身が叩いたドラムをサンプラーでループさせたり、ドラムの音なしでベースの小沢靖とのデュオとして活動していたが、2005年を境としバンド(あるいはデュオ)形態での活動は休止状態となった(以降ごくたまにソロだが不失者名義で演奏)。 2008年、長年不失者のベーシストであった小沢靖が2月7日朝方に肺がん・肺気腫のため永眠。
2008年末には伊藤まくとユニット“沙無座(ザムザ)”を結成。渋谷のClub-VUENOSでライブを行なう。
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