KAN
小档案
KAN(かん、1962年9月24日 - )は、日本のシンガーソングライター。本名は木村 和(きむら かん)。福岡県福岡市出身。アップフロントエージェンシー所属。
小简介
発表するオリジナル楽曲は全てKAN自身が作曲。主に70年代から80年代にかけての洋楽に影響を受けており、特に後期のビートルズ(ジョン・レノンやポール・マッカートニーのソロ作品も含む)や、ビリー・ジョエル、スティーヴィー・ワンダー等からは、彼の音楽のルーツともいえるほど強く影響を受けている。メロディーやアレンジから彼らの音楽性を独自に研究し、それらの要素を自身の楽曲に積極的に取り入れている。また、楽曲的にスタイルを模倣した作品(パロディ)も存在する。基本的にピアノをフィーチュアした楽曲が多いが、ロックンロール、ソウル、ファンク、ジャズ、ダンスビート、そしてヒップホップも取り入れるなど、取り扱うジャンルは幅広い。
作曲とアレンジは切り離せない一つの作業という考えから、自ら作成したデモテープのアレンジを、レコーディングの際に大幅に変更されることを嫌う。そのため、レコーディング現場でスタッフと喧嘩になることもあった。そうした中で、1990年発表の5thアルバム『野球選手が夢だった。』から共同アレンジャーとして参加している小林信吾には最も信頼を置いており、このアルバム以降はほとんどが小林との共同アレンジか、KANの単独アレンジである。
デビュー前はほとんど洋楽しか聴いていなかったため、作詞に関しては影響を受けた邦楽アーティストがおらず、自ら作曲をしていた「アネット」時代も含め、1987年のデビュー当初は自ら作詞をすることは少なかった。本格的に作詞をするようになったのは1988年発表の3rdアルバム『GIRL TO LOVE』からであり(10曲中8曲を作詞)、1989年発表の4thアルバム『HAPPY TITLE−幸福選手権−』以降は全て作詞している。なお、1992年に発行されたエッセイ『ぼけつばりほり』において、「詞を書くのにもの凄く時間がかかる」と語っており、他にも2009年のBAND LIVE TOORにて新作CDの準備に取り掛かっている事をアピールする際に、「曲はあるんですけどね、曲は。歌詞が・・・。」とお茶を濁したこともある。
バンドライブにおいては、コントや寸劇、ダンス等、様々なパフォーマンスが盛り込まれ、KAN自身はこれらを「音楽ギャグエンターテイメントショー」と呼んでいる。例外的に1997年のツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO~」と、2001年のツアー「2001年宇宙の家」においては、ライブパフォーマンス自体にギャグを盛り込まない真面目なツアーとして開催された。ツアーメンバーのバンド名は「ヤン嶋田とニューブリーフ」。1990年代半ば以降、ギターの中野豊(1990年~)、ベースの西嶋正巳(1993年~)、ドラムスの清水淳(1989年~、2006年のツアーは不参加)、キーボードの矢代恒彦(1987年~、1992年~1994年のツアーは不参加)の四人はほぼ固定されているが、2006年以降のツアーではこのバンド名は使用されていない。
フランスから帰国した翌年の2005年、初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行。以後、「#2」(2005年)、「#3」(2006年)、「#5」(2007年)、「#7」(2008年)、「#11」(2009年)と、バンドライブと交互して定期的に敢行。なお、ツアータイトルの#(ナンバー)は、KANが好む素数でカウントしている。
コンサート終了後の陰アナでは、実際のコンサートタイトルとは違うタイトルを言わせて帰り際の観客を笑わせるのが定番となっている。
大事件
1962年9月24日、福岡県福岡市に二人兄弟の次男として生まれる。
1967年、東田島カトリック幼稚園に入園。翌年に福岡市天神のヤマハ音楽教室に入室し、オルガンのレッスンを受ける。
1969年、福岡市立田島小学校(現 笹丘小学校)に入学。福岡市唐人町の中村順子先生にクラシックピアノを習い始める。先生宅で週一回のピアノレッスンに加え、毎週日曜日に田島バプテスト教会に通い賛美歌を歌う日々を過ごす。4年生の年に福岡市団地対抗少年野球連盟のチームに入団、6年生でレギュラーに昇格、副キャプテンを兼任した。また、学内唯一の長髪、赤いベルボトムジーンズ、オーバーオールを着こなすなど、ファッションリーダーとしても生徒間で注目を集め、福岡の老舗デパート「岩田屋」のランドセルのテレビCM及び広告にモデルとして出演。
1975年、福岡市立友泉中学校に入学。独学でギターを持ち始め、ビートルズをコピーする。中学2年生の秋に、高校受験を理由にクラシックピアノを辞めるが、3年生の年にビートルズのコピーバンドを結成。
1978年、福岡県立城南高等学校に入学。水泳部に所属。同級部員から借りたビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』に衝撃を受け、ピアノロックに目覚める(その後、KANはこのLPを、本来の所有者に発覚するまで29年間も所持)。また、この頃から曲を書き始めるようになり、同級生らとロックンロールバンドを結成する。
1981年、法政大学社会学部に入学。ピアノを買うために大学にはほとんど行かず銀座のレストランや六本木のディスコ「玉椿」でのアルバイトに明け暮れる(そのため二年生の時に留年)。1983年に福岡県立城南高等学校水泳部の先輩らが所属していたフュージョン系バンド「アネット」に、“自分のオリジナル曲をやること”を条件に加入(このバンドで演奏した曲は、KANがデビュー以降に発表した作品の中にも存在する)。1984年にヤマハ「East West '84」決戦大会で優秀賞、集英社ヤングジャンプ「Sound Contest '84」でヤングジャンプ奨励賞を受賞する。
1986年にライトリンクスコーポレーション(1988年にアップフロントエージェンシーに吸収合併)と契約。同年、大林宣彦監督作品『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の音楽を担当する(大林宣彦とは後に「大連・尾道友港都市博覧会」での上演作品、及びKANのセカンドシングル「BRACKET」のPVでもコンビを組んでいる)。
1987年4月25日、ポリドールよりシングル『テレビの中に』及び同名のアルバムでレコード・デビュー。
1990年、シングル「愛は勝つ」がフジテレビ系『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の挿入歌となり大ヒット。シングルは200万枚を越えるセールスとなり、オリコンチャートイン52週のロングヒットを記録する。1991年には第33回日本レコード大賞(ポップス・ロック部門)を受賞。また、第42回NHK紅白歌合戦にも出場した(その際、モーツァルト生誕200周年にかけて、モーツァルトのかつら&扮装で熱唱)。
1996年11月、中国・広州の「広東国際広播音楽博覧会」に出演。「愛は勝つ」を北京語と中国語で熱唱。
1997年のコンサートツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO DAL TREDICI SETTEMBRE PASSANDO IL MIO COMPLEANNO AL OTTO NOVEMBRE」で共演したバイオリニストの早稲田桜子と、1999年4月に結婚。
2002年2月に「フランス人になりたい」と言う夢の実現の為住居をフランス・パリに移す。また、クラシックピアノを基礎から勉強し直すため、エコール・ノルマル・ドゥ・ミュジーク・ドゥ・パリのピアノ科(ノンプロフェッショネル)第2ディヴィジョンに中途入学。翌年6月に同科第3ディヴィジョンを修了。
2004年7月に帰国し、2005年に初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行。
2006年2月22日に4年5ヶ月振りのニューシングル『カレーライス』を発表し、同年5月、初の上海ライブを新天地ARKにて行う。同年8月30日に5年振りのニューアルバム『遥かなるまわり道の向こうで』を発表。
2009年2月、NHK-BS2『あなたの街で 夢コンサート』に出演。自身初のオーケストラアレンジを施した「愛は勝つ」を東京フィルハーモニー交響楽団と演奏した。
KAN(かん、1962年9月24日 - )は、日本のシンガーソングライター。本名は木村 和(きむら かん)。福岡県福岡市出身。アップフロントエージェンシー所属。
小简介
発表するオリジナル楽曲は全てKAN自身が作曲。主に70年代から80年代にかけての洋楽に影響を受けており、特に後期のビートルズ(ジョン・レノンやポール・マッカートニーのソロ作品も含む)や、ビリー・ジョエル、スティーヴィー・ワンダー等からは、彼の音楽のルーツともいえるほど強く影響を受けている。メロディーやアレンジから彼らの音楽性を独自に研究し、それらの要素を自身の楽曲に積極的に取り入れている。また、楽曲的にスタイルを模倣した作品(パロディ)も存在する。基本的にピアノをフィーチュアした楽曲が多いが、ロックンロール、ソウル、ファンク、ジャズ、ダンスビート、そしてヒップホップも取り入れるなど、取り扱うジャンルは幅広い。
作曲とアレンジは切り離せない一つの作業という考えから、自ら作成したデモテープのアレンジを、レコーディングの際に大幅に変更されることを嫌う。そのため、レコーディング現場でスタッフと喧嘩になることもあった。そうした中で、1990年発表の5thアルバム『野球選手が夢だった。』から共同アレンジャーとして参加している小林信吾には最も信頼を置いており、このアルバム以降はほとんどが小林との共同アレンジか、KANの単独アレンジである。
デビュー前はほとんど洋楽しか聴いていなかったため、作詞に関しては影響を受けた邦楽アーティストがおらず、自ら作曲をしていた「アネット」時代も含め、1987年のデビュー当初は自ら作詞をすることは少なかった。本格的に作詞をするようになったのは1988年発表の3rdアルバム『GIRL TO LOVE』からであり(10曲中8曲を作詞)、1989年発表の4thアルバム『HAPPY TITLE−幸福選手権−』以降は全て作詞している。なお、1992年に発行されたエッセイ『ぼけつばりほり』において、「詞を書くのにもの凄く時間がかかる」と語っており、他にも2009年のBAND LIVE TOORにて新作CDの準備に取り掛かっている事をアピールする際に、「曲はあるんですけどね、曲は。歌詞が・・・。」とお茶を濁したこともある。
バンドライブにおいては、コントや寸劇、ダンス等、様々なパフォーマンスが盛り込まれ、KAN自身はこれらを「音楽ギャグエンターテイメントショー」と呼んでいる。例外的に1997年のツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO~」と、2001年のツアー「2001年宇宙の家」においては、ライブパフォーマンス自体にギャグを盛り込まない真面目なツアーとして開催された。ツアーメンバーのバンド名は「ヤン嶋田とニューブリーフ」。1990年代半ば以降、ギターの中野豊(1990年~)、ベースの西嶋正巳(1993年~)、ドラムスの清水淳(1989年~、2006年のツアーは不参加)、キーボードの矢代恒彦(1987年~、1992年~1994年のツアーは不参加)の四人はほぼ固定されているが、2006年以降のツアーではこのバンド名は使用されていない。
フランスから帰国した翌年の2005年、初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行。以後、「#2」(2005年)、「#3」(2006年)、「#5」(2007年)、「#7」(2008年)、「#11」(2009年)と、バンドライブと交互して定期的に敢行。なお、ツアータイトルの#(ナンバー)は、KANが好む素数でカウントしている。
コンサート終了後の陰アナでは、実際のコンサートタイトルとは違うタイトルを言わせて帰り際の観客を笑わせるのが定番となっている。
大事件
1962年9月24日、福岡県福岡市に二人兄弟の次男として生まれる。
1967年、東田島カトリック幼稚園に入園。翌年に福岡市天神のヤマハ音楽教室に入室し、オルガンのレッスンを受ける。
1969年、福岡市立田島小学校(現 笹丘小学校)に入学。福岡市唐人町の中村順子先生にクラシックピアノを習い始める。先生宅で週一回のピアノレッスンに加え、毎週日曜日に田島バプテスト教会に通い賛美歌を歌う日々を過ごす。4年生の年に福岡市団地対抗少年野球連盟のチームに入団、6年生でレギュラーに昇格、副キャプテンを兼任した。また、学内唯一の長髪、赤いベルボトムジーンズ、オーバーオールを着こなすなど、ファッションリーダーとしても生徒間で注目を集め、福岡の老舗デパート「岩田屋」のランドセルのテレビCM及び広告にモデルとして出演。
1975年、福岡市立友泉中学校に入学。独学でギターを持ち始め、ビートルズをコピーする。中学2年生の秋に、高校受験を理由にクラシックピアノを辞めるが、3年生の年にビートルズのコピーバンドを結成。
1978年、福岡県立城南高等学校に入学。水泳部に所属。同級部員から借りたビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』に衝撃を受け、ピアノロックに目覚める(その後、KANはこのLPを、本来の所有者に発覚するまで29年間も所持)。また、この頃から曲を書き始めるようになり、同級生らとロックンロールバンドを結成する。
1981年、法政大学社会学部に入学。ピアノを買うために大学にはほとんど行かず銀座のレストランや六本木のディスコ「玉椿」でのアルバイトに明け暮れる(そのため二年生の時に留年)。1983年に福岡県立城南高等学校水泳部の先輩らが所属していたフュージョン系バンド「アネット」に、“自分のオリジナル曲をやること”を条件に加入(このバンドで演奏した曲は、KANがデビュー以降に発表した作品の中にも存在する)。1984年にヤマハ「East West '84」決戦大会で優秀賞、集英社ヤングジャンプ「Sound Contest '84」でヤングジャンプ奨励賞を受賞する。
1986年にライトリンクスコーポレーション(1988年にアップフロントエージェンシーに吸収合併)と契約。同年、大林宣彦監督作品『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』の音楽を担当する(大林宣彦とは後に「大連・尾道友港都市博覧会」での上演作品、及びKANのセカンドシングル「BRACKET」のPVでもコンビを組んでいる)。
1987年4月25日、ポリドールよりシングル『テレビの中に』及び同名のアルバムでレコード・デビュー。
1990年、シングル「愛は勝つ」がフジテレビ系『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の挿入歌となり大ヒット。シングルは200万枚を越えるセールスとなり、オリコンチャートイン52週のロングヒットを記録する。1991年には第33回日本レコード大賞(ポップス・ロック部門)を受賞。また、第42回NHK紅白歌合戦にも出場した(その際、モーツァルト生誕200周年にかけて、モーツァルトのかつら&扮装で熱唱)。
1996年11月、中国・広州の「広東国際広播音楽博覧会」に出演。「愛は勝つ」を北京語と中国語で熱唱。
1997年のコンサートツアー「LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO DAL TREDICI SETTEMBRE PASSANDO IL MIO COMPLEANNO AL OTTO NOVEMBRE」で共演したバイオリニストの早稲田桜子と、1999年4月に結婚。
2002年2月に「フランス人になりたい」と言う夢の実現の為住居をフランス・パリに移す。また、クラシックピアノを基礎から勉強し直すため、エコール・ノルマル・ドゥ・ミュジーク・ドゥ・パリのピアノ科(ノンプロフェッショネル)第2ディヴィジョンに中途入学。翌年6月に同科第3ディヴィジョンを修了。
2004年7月に帰国し、2005年に初の単身弾き語りツアー「弾き語りばったり#1」を敢行。
2006年2月22日に4年5ヶ月振りのニューシングル『カレーライス』を発表し、同年5月、初の上海ライブを新天地ARKにて行う。同年8月30日に5年振りのニューアルバム『遥かなるまわり道の向こうで』を発表。
2009年2月、NHK-BS2『あなたの街で 夢コンサート』に出演。自身初のオーケストラアレンジを施した「愛は勝つ」を東京フィルハーモニー交響楽団と演奏した。
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