小林旭
小档案
小林旭(こばやし あきら、1938年11月3日 - )は東京都世田谷区出身の俳優、歌手である。身長180cm、体重98kg、血液型AB型。愛称は、マイトガイ。
大事件
子役を経て第三期日活ニューフェイスに合格。明治大学中退。
1956年、『飢える魂』でデビュー。1959年公開の『南国土佐を後にして』で脚光を浴びる。以降「渡り鳥」シリーズ、「旋風児」シリーズに主演。石原裕次郎らと共に日活の黄金時代を築く。しかし、映画の興行収入が石原裕次郎主演作より上だった年もあったが、石原裕次郎よりギャラは低かった。
1958年、日本コロムビアより『女を忘れろ』で歌手デビュー。映画の『ギターを持った渡り鳥』『銀座旋風児(ぎんざまいとがい)』などの主題歌、挿入歌を歌いヒットさせる。また、「自動車ショー歌」(2005年に放送されたアサヒビールの「カクテルパートナー」のCMソングはこの「自動車ショー歌」をアレンジした「カクパーショー歌」である)、「恋の山手線」などのコミックソング、「昔の名前で出ています」などの演歌も歌っている。また、これらの楽曲を独特の歌唱で歌いこなす姿から総称して『アキラ節』と呼ばれることが多い。
美空ひばりと対談をしてからお互いに慕う仲になり、1962年に結婚したが、1964年に離婚。著書によれば、結婚の際も離婚の際もひばりの父親代わりの山口組三代目組長田岡一雄から頼まれ、逆らうことは出来なかったとのこと。実際には2人はひばりの母の反対で入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった。小林は妻であるひばりにもっと仕事をセーブしてほしいと思っていたが、ひばりの母の反対もありうまくいかなかった。また、小林が豪奢な生活を好み、勝手に借金を作るなどトラブルを起こし、ひばり母子を失望させたことも原因である(それにより、減らしていた仕事を増やさざるを得なくなっていた)。離婚記者会見には、ひばりと共に田岡が並んで会見し、世間を驚かせた。会見で協議離婚かと聞かれた小林は(協議も何もなかったので)「理解離婚」だと答えたため、理解離婚と言う言葉が流行語となった。また「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と語っており、自身の本意でなかったと語っている。
1964年、クラウンレコードへ移籍。
1967年、女優の青山京子と再婚。
1970~1971年、すっかり客足の鈍った日活と大映はダイニチ映配を発足させ次々に作品を製作するも両社共々迷走し多大なる赤字を被る。
自らが主宰するアロー・エンタープライズが製作、そして主演し得意のアクションを披露したTVドラマ『ターゲット・メン』などを含めた事業の失敗により14億円もの債務を背負う。
1972年、東映入り。1973年より大ヒットした『仁義なき戦い』シリーズでの武田明役で脚光を浴びる。
1978年、『多羅尾伴内』のリメイク作に主演。シリーズ化する予定であったが、二作目が興行不振となり打ち切られた。1979年にはヤンマーの農業用トラクター「ヤンマーディーゼルトラクタ・YM2210」のTVCMに出演した。
1977年、発売から二年を経て「昔の名前で出ています」が大ヒットを記録し、歌手としても再び脚光を浴びるようになった。第28回NHK紅白歌合戦に初出場し、1996年までに7回出場。
1981年ポリドールへ移籍。
1985年、大ファンでもあった大瀧詠一が小林のために書き下ろした(作詞は阿久悠)「熱き心に」がAGFのCMソングとして大ヒットし、翌1986年の第37回NHK紅白歌合戦に2回目の出場を果たす。2002年には大瀧の企画・監修による4枚組CDが発売された。
1988年、『春来る鬼』で監督業に進出するも、興業不振となる。その後1992年『修羅の伝説』で俳優業に復帰。
2004年、芸能生活50周年を記念し、石原裕次郎や美空ひばりとのことなど、これまでの人生についてに綴った『熱き心に』を出版した。
2006年、本人をモチーフにしたパチンコ機「CR渡り鳥AKIRA」(藤商事)が登場した。
2007年2月23日、日本プロゴルフ協会から、川上哲治、羽佐間正雄らとともに名誉会員(2006年に制定)に認定される。名誉と言う肩書きではあるが、実際にプロの試合に出て賞金を稼ぐことも可能である。2007年4月、自身のニックネームを冠したマイトガイレーベルという芸能制作会社を設立。マイトガイレーベル第一弾CDとなる本人作詞作曲による新曲「折紙人生」が、NHK『ラジオ深夜便』の7月~9月の「深夜便の歌」として採用される。また、同7月には大阪新歌舞伎座で舞台『無法松の一生』にて20年ぶりの座長公演を務めた。
小林旭(こばやし あきら、1938年11月3日 - )は東京都世田谷区出身の俳優、歌手である。身長180cm、体重98kg、血液型AB型。愛称は、マイトガイ。
大事件
子役を経て第三期日活ニューフェイスに合格。明治大学中退。
1956年、『飢える魂』でデビュー。1959年公開の『南国土佐を後にして』で脚光を浴びる。以降「渡り鳥」シリーズ、「旋風児」シリーズに主演。石原裕次郎らと共に日活の黄金時代を築く。しかし、映画の興行収入が石原裕次郎主演作より上だった年もあったが、石原裕次郎よりギャラは低かった。
1958年、日本コロムビアより『女を忘れろ』で歌手デビュー。映画の『ギターを持った渡り鳥』『銀座旋風児(ぎんざまいとがい)』などの主題歌、挿入歌を歌いヒットさせる。また、「自動車ショー歌」(2005年に放送されたアサヒビールの「カクテルパートナー」のCMソングはこの「自動車ショー歌」をアレンジした「カクパーショー歌」である)、「恋の山手線」などのコミックソング、「昔の名前で出ています」などの演歌も歌っている。また、これらの楽曲を独特の歌唱で歌いこなす姿から総称して『アキラ節』と呼ばれることが多い。
美空ひばりと対談をしてからお互いに慕う仲になり、1962年に結婚したが、1964年に離婚。著書によれば、結婚の際も離婚の際もひばりの父親代わりの山口組三代目組長田岡一雄から頼まれ、逆らうことは出来なかったとのこと。実際には2人はひばりの母の反対で入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった。小林は妻であるひばりにもっと仕事をセーブしてほしいと思っていたが、ひばりの母の反対もありうまくいかなかった。また、小林が豪奢な生活を好み、勝手に借金を作るなどトラブルを起こし、ひばり母子を失望させたことも原因である(それにより、減らしていた仕事を増やさざるを得なくなっていた)。離婚記者会見には、ひばりと共に田岡が並んで会見し、世間を驚かせた。会見で協議離婚かと聞かれた小林は(協議も何もなかったので)「理解離婚」だと答えたため、理解離婚と言う言葉が流行語となった。また「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と語っており、自身の本意でなかったと語っている。
1964年、クラウンレコードへ移籍。
1967年、女優の青山京子と再婚。
1970~1971年、すっかり客足の鈍った日活と大映はダイニチ映配を発足させ次々に作品を製作するも両社共々迷走し多大なる赤字を被る。
自らが主宰するアロー・エンタープライズが製作、そして主演し得意のアクションを披露したTVドラマ『ターゲット・メン』などを含めた事業の失敗により14億円もの債務を背負う。
1972年、東映入り。1973年より大ヒットした『仁義なき戦い』シリーズでの武田明役で脚光を浴びる。
1978年、『多羅尾伴内』のリメイク作に主演。シリーズ化する予定であったが、二作目が興行不振となり打ち切られた。1979年にはヤンマーの農業用トラクター「ヤンマーディーゼルトラクタ・YM2210」のTVCMに出演した。
1977年、発売から二年を経て「昔の名前で出ています」が大ヒットを記録し、歌手としても再び脚光を浴びるようになった。第28回NHK紅白歌合戦に初出場し、1996年までに7回出場。
1981年ポリドールへ移籍。
1985年、大ファンでもあった大瀧詠一が小林のために書き下ろした(作詞は阿久悠)「熱き心に」がAGFのCMソングとして大ヒットし、翌1986年の第37回NHK紅白歌合戦に2回目の出場を果たす。2002年には大瀧の企画・監修による4枚組CDが発売された。
1988年、『春来る鬼』で監督業に進出するも、興業不振となる。その後1992年『修羅の伝説』で俳優業に復帰。
2004年、芸能生活50周年を記念し、石原裕次郎や美空ひばりとのことなど、これまでの人生についてに綴った『熱き心に』を出版した。
2006年、本人をモチーフにしたパチンコ機「CR渡り鳥AKIRA」(藤商事)が登場した。
2007年2月23日、日本プロゴルフ協会から、川上哲治、羽佐間正雄らとともに名誉会員(2006年に制定)に認定される。名誉と言う肩書きではあるが、実際にプロの試合に出て賞金を稼ぐことも可能である。2007年4月、自身のニックネームを冠したマイトガイレーベルという芸能制作会社を設立。マイトガイレーベル第一弾CDとなる本人作詞作曲による新曲「折紙人生」が、NHK『ラジオ深夜便』の7月~9月の「深夜便の歌」として採用される。また、同7月には大阪新歌舞伎座で舞台『無法松の一生』にて20年ぶりの座長公演を務めた。
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